2026/08/03
「また56円か…でも、うちは診療報酬が上がるわけじゃないんだよな」
最低賃金の引上げ目安が報じられるたびに、そう感じておられる院長先生・管理者の方は多いのではないでしょうか。一般の企業なら「価格に転嫁する」という選択肢がありますが、医療機関や介護施設ではそうはいきません。診療報酬も介護報酬も公定価格だからです。
令和8年7月28日、今年度の最低賃金の引上げ額の目安が示されました。この記事では、医療機関・介護施設ならではの事情を踏まえて、10月までに確認しておきたいポイントを整理します。特に「うちは月給だから関係ない」と思っておられる場合は、ぜひ最後までお読みください。
📌 結論を先に
医療機関・介護施設は、値上げで人件費増を吸収できない業種です。だからこそ、賃金額そのものよりも先に「所定労働時間」と「手当の設計」を点検する必要があります。
特に注意すべきは、常時10人未満の医療機関で使える週44時間の特例です。同じ月給でも、週40時間の事業場より時給換算額が約1割低くなります。「月給20万円なのに最低賃金割れ」が現実に起こります。
令和8年7月28日の第75回中央最低賃金審議会で、引上げ額の目安が答申されました。Aランク54円、Bランク56円、Cランク56円です。目安どおりに改定された場合、全国加重平均は1,176円(上昇額55円・引上げ率4.9%)になります。
ただし、これは目安にすぎません。実際の金額は各都道府県の地方最低賃金審議会の審議を経て、8月下旬〜9月に決まります。前年度は39の道府県で目安を上回る金額が決定されました。発効日も都道府県によって差があります。
💡 目安の読み方や時給換算の基本はこちらで解説しています
ランク別の内訳、発効日の確認方法、月給の時給換算の計算式、使える助成金などの基本的な内容は、「【令和8年度】最低賃金の目安は全国平均1,176円に!中小企業が9月までに確認すべき5つのこと」で詳しくまとめています。あわせてご覧ください。
最低賃金が上がったとき、一般の企業であれば商品やサービスの価格に転嫁するという選択肢があります。しかし医療機関では、患者さんからいただく診療報酬は公定価格です。人件費が上がったからといって、自院の判断で単価を上げることはできません。介護施設の介護報酬も同じ構造です。
ここが、他業種のコラムを読んでも「うちには当てはまらない」と感じてしまう理由です。医療機関にとっての原資は、価格ではなく報酬改定で措置された加算と院内の生産性向上の2つに限られます。
| 区分 | 主な原資 |
|---|---|
| 医療機関 | ベースアップ評価料など、賃上げに充てることが前提の診療報酬 |
| 介護施設 | 介護職員等処遇改善加算 |
| 共通 | 業務改善助成金、キャリアアップ助成金、賃上げ促進税制 |
⚠️ 加算を原資にする場合の落とし穴
ベースアップ評価料や処遇改善加算を原資に手当を新設した場合、その手当はあとから簡単には下げられません。算定要件を満たさなくなったからといって一方的に減額すると、労働条件の不利益変更の問題が生じます。手当を新設する際の設計そのものが重要になります。この点は「ベースアップ評価料は手当?基本給?後で困らない賃金規程の作り方」で詳しく解説しています。
ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。医療機関で最低賃金割れが起きる最大の原因は、賃金額の低さではなく所定労働時間の長さにあります。
労働時間の原則は週40時間ですが、常時使用する労働者が10人未満の一定の業種については、週44時間まで認められる特例があります(労働基準法第40条、労働基準法施行規則第25条の2)。
対象となるのは、商業、映画・演劇業、保健衛生業、接客娯楽業です。医科クリニック・歯科医院・薬局、そして社会福祉施設は保健衛生業にあたるため、スタッフが10人未満であればこの特例を使えます。土曜も診療する医療機関では、実際に採用されているケースがよくあります。
最低賃金は時間額で定められているため、月給者は時給に換算して比較します。計算式は「最低賃金に算入される賃金 ÷ 1か月平均所定労働時間」です。この分母が、週40時間と週44時間では大きく変わります。
| 項目 | 週40時間の事業場 | 週44時間の事業場 |
|---|---|---|
| 1か月平均所定労働時間 | 約173.8時間 | 約191.2時間 |
| 算入対象の月給20万円の場合 | 時給換算 約1,151円 | 時給換算 約1,046円 |
| 差 | 同じ月給でも、時給換算額は約105円の差になります | |
つまり、同じ20万円を払っていても、週44時間の事業場のほうが先に最低賃金を割り込みます。今年度の改定で地域の最低賃金が1,100円を超えれば、上の例では週44時間の事業場だけが最低賃金割れという状態になります。
⚠️ ここで院長先生がよくつまずきます
実際のご相談でも、「パートの時給は毎年見直しているけれど、常勤スタッフの月給は数年据え置き」という医療機関は少なくありません。時給のスタッフは目に見えて分かるのに対し、月給者は計算しないと分からないからです。
さらに危ないのが、スタッフが10人以上になったのに週44時間のままになっているケースです。特例が使えるのは常時10人未満の事業場に限られます。開業当初は該当していても、増員して10人を超えた時点で週40時間に戻さなければなりません。この切り替えを失念したまま何年も経っている医療機関を、これまで何件も拝見してきました。
資格手当・役職手当は算入できます。一方、精皆勤手当・通勤手当・家族手当は算入できません。医療機関は手当の種類が多い分、この仕分けを間違えると判定を誤ります。
最低賃金に算入しないと定められているのは、次のものだけです(最低賃金法第4条第3項)。
💡 残業代の計算と混同しないでください
割増賃金の基礎から除外できる手当(家族手当・通勤手当・別居手当・子女教育手当・住宅手当など)と、最低賃金から除外される手当は範囲が違います。たとえば住宅手当は、割増賃金の計算では一定の要件のもとで除外できますが、最低賃金の判定では算入されます。ここを取り違えて「うちは大丈夫」と判断してしまう例が、実務では意外に多いところです。
夜勤手当のうち、深夜割増賃金にあたる部分は最低賃金に算入できません。定額の夜勤手当を支給している場合は、そのうちいくらが深夜割増に相当するのかを整理しておく必要があります。
オンコール手当は、待機の実態によって取扱いが変わります。自宅待機中の拘束の程度、呼び出しの頻度、応答義務の有無などによって、そもそも労働時間にあたるかどうかの判断が分かれるためです。定額で支給しているだけで整理されていない医療機関が多いので、この機会に一度点検されることをおすすめします。
正直に申し上げると、医療機関の最低賃金対応で本当に難しいのは、法令をクリアすることではありません。引き上げたあとに院内で起きる、賃金バランスの崩れのほうです。
医療機関で最低賃金にいちばん近い層は、受付・医療事務・歯科助手・看護補助者など、資格を要しない職種のスタッフです。最低賃金の引上げに合わせて、この層の時給を毎年上げていくことになります。
一方で、看護師・歯科衛生士・薬剤師といった有資格者の賃金は、最低賃金に連動して自動的に上がるわけではありません。この状態が数年続くと、資格を持って責任を負っているスタッフと、そうでないスタッフの差がどんどん縮まっていきます。
「同じような金額なら、資格の勉強をした意味がなかったのでは」——こうした声が出はじめると、定着に影響が出てきます。人材確保が難しい職種ほど、この影響は深刻です。
もうひとつよくあるのが、募集時給だけを引き上げてしまうパターンです。人が採れないので求人票の時給を上げたところ、新しく入ったスタッフのほうが、3年勤めているスタッフより高くなってしまった、というケースです。
医療機関は職場の人数が限られている分、こうした情報はすぐに共有されます。求人を出す前に、院内の賃金バランスをセットで見直しておくのが安心です。
📅 令和8年10月には同一労働同一賃金の改正もあります
パートやアルバイトの時給を引き上げると、常勤スタッフとの待遇差の説明がこれまで以上に問われる場面が出てきます。時給の見直しと待遇差の点検は、本来セットで進めるべきものです。詳しくは「【令和8年10月1日施行】同一労働同一賃金ガイドラインが変わります!中小企業が『今すぐ』やっておきたい3つのこと」をご覧ください。
⚠️ 最低賃金を下回っていた場合
最低賃金額に満たない部分の労働契約は無効となり、最低賃金額で契約したものとみなされます。つまり差額の支払い義務が生じ、過去にさかのぼって請求される可能性があります。また、地域別最低賃金を下回った場合には、最低賃金法により50万円以下の罰金が科されることもあります。退職したスタッフから指摘を受けて発覚する、というケースもあります。
最低賃金の引上げは、報酬が公定価格である医療機関にとって、たしかに厳しい話です。ただ、政府は2030年代半ばまでに全国加重平均1,500円という目標を掲げています。「今年をどうしのぐか」で対応していると、毎年同じ悩みを繰り返すことになります。
資格・経験年数・役割に応じた賃金の仕組みを一度つくっておけば、毎年の改定は表の数字を入れ替えるだけの作業になります。そして何より、「なぜこの金額なのか」を説明できる職場は、スタッフの納得が得られやすく、採用の場面でも強くなります。
人材確保が年々難しくなっている医療・介護の現場だからこそ、賃金の根拠を整えておくことが、いちばんの人材定着策になります。今回の改定を、その見直しのきっかけにしてみてはいかがでしょうか。
A. 含めて数えます。雇用形態を問わず、その事業場で常態として使用しているスタッフの人数で判断します。院長先生ご自身(事業主)は含めません。繁忙期に一時的に10人を超える程度であれば直ちに特例から外れるわけではありませんが、常態として10人以上になっている場合は週40時間に切り替える必要があります。
A. 事業場ごとに判断します。場所が離れており、独立して運営されている分院は、それぞれ別の事業場として扱うのが原則です。本院が12人、分院が6人であれば、分院のほうは特例の対象になり得ます。適用される最低賃金の金額や発効日も、事業場の所在地ごとに確認が必要です。
A. 毎月定額で支給している手当であれば、最低賃金には算入できます。ただし、算入できることと、その手当を最低賃金対応の穴埋めに使ってよいかは別の話です。加算の趣旨は賃金改善であり、支給実績の報告も求められます。制度の趣旨に沿った運用になっているか、あわせてご確認ください。
A. 委託先の従業員の賃金は委託先が負担しますが、最低賃金の引上げを理由に委託料の見直しを求められる可能性があります。今回の答申でも、年度途中の改定によって委託先での最低賃金の履行に支障が生じないよう、発注者側への配慮が言及されています。派遣スタッフを受け入れている場合は、派遣先である貴院の所在地の最低賃金が適用される点にもご注意ください。
A. 就業規則の変更手続き(スタッフの過半数代表者の意見聴取、労働基準監督署への届出、院内への周知)が必要です。所定労働時間を短くする方向であれば不利益変更にはあたりませんが、賃金の取扱いをどうするかは慎重な設計が必要です。時間あたりの単価が変わるため、残業代の計算にも影響します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 引上げ額の目安 | Aランク54円/Bランク56円/Cランク56円(令和8年7月28日答申) |
| 目安どおりの場合の全国加重平均 | 1,176円(上昇額55円・引上げ率4.9%) |
| 医療機関の構造的な事情 | 診療報酬は公定価格のため、価格転嫁ができない |
| 最大の落とし穴 | 週44時間の特例により、時給換算額が約1割低くなる |
| 算入できる手当 | 資格手当・役職手当・住宅手当など毎月定額で支給するもの |
| 算入できない手当 | 精皆勤手当・通勤手当・家族手当、各種割増賃金、賞与 |
| 同時に点検すべきこと | 有資格者との賃金差、令和8年10月の同一労働同一賃金の改正 |
「うちは週44時間だが、最低賃金割れしていないか確認してほしい」「常勤スタッフの月給を時給換算したことがない」「資格手当と基本給のバランスを見直したい」「就業規則の所定労働時間を変更したい」
そんなお悩みがあれば、ぜひTOMOE社会保険労務士事務所にご相談ください。栃木県小山市を拠点に、歯科医院・クリニック・薬局など医療機関の労務課題に数多く対応してきた実績があります。貴院の実情に合わせて、丁寧に伴走させていただきます。
金額が確定してから動き出すと、10月の給与計算に間に合わないこともあります。目安が示された今のうちに点検を始めておくのが、いちばんの安心材料です。
※本記事は2026年8月時点の情報をもとに作成しています。令和8年度の地域別最低賃金額は各都道府県の地方最低賃金審議会の答申を経て決定されるため、記載の目安額と実際の決定額は異なる場合があります。最新の情報は厚生労働省ホームページをご確認ください。